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患者さんの体験談~一病息災~

第15回

阿部 豊さん(あべ  ゆたか:1967年生まれ、会社員)

 

「僕の場合、腎ネフローゼの会や東腎協など、同じ病気の仲間がいて、一緒に勉強したり、体験を話し合ったりできたのがよかった。そういう機会が増えれば、いろんな選択肢が広がって、希望が持てると思う」

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阿部 豊さん 昭和46年東京都生まれ。
受験生だった19歳のとき、十二指腸潰瘍の緊急手術を受けた病院で、院内感染にかかり敗血症に。
一命を取りとめるが、退院時の検査でネフローゼと診断され、大学2年のとき慢性腎炎に。
卒業後、大手広告代理店系列の制作会社に入社するが、約5ヵ月後の定期検診でクレアチニン値が8を超え、すぐに血液透析を導入。
透析を始めて5年目の2005年、母親から生体腎臓移植 を受ける。現在は社会保険労務士の資格を活かして人事部に在籍。
社内の軽音クラブのバンドでは幼少期から習い始めた腕前を活かしバイオリンを担当。
約1年の壮絶な闘病生活、退院時にはネフローゼに

受験に失敗して、二浪決定かという19歳の頃、十二指腸に穴が開いて、緊急手術を受けたんです。手術は成功したのですが、熱が下がらず傷口もふさがらない。院内感染だったんですね。敗血症にかかり、薬を大量に投与され、手術は合計5回。胃を全摘し、10ヵ月寝たきりでした。20歳の4月に退院。そのときの検査で尿たんぱくが出て、ネフローゼと診断されました。

むくみに苦しみながらも、なんとか大学に合格し、通い始めた翌年には慢性腎炎に。それでも、大学ではオーケストラのサークルに4年間所属して、それなりにのんびりやってましたね。小さい頃、いやいやバイオリンを習っていたのが功を奏した。高校時代はパンクロックのバンドでギターを弾いていたけど、本人は病気で乗れないのに、「乗ってるかい?!」なんていえないですものね。

ようやく就職できたのに、5ヵ月後に血液透析に

治らない病気とわかったら、ある程度割り切ることができた。ただ、できることは準備しておかないと。そう思って、学生の間に簿記2級、宅建、パソコン検定を取り、土地家屋調査士と社会保険労務士の勉強も始めました。それでも就職は全滅。そりゃ雇いたくないでしょう。どれだけ働けるかもわからないんだし。4 年のとき、土地家屋調査士の事務所でアルバイトを始めたのですが、測量に歩き回るので、これも無理だと気づいた。それで、就職のために障害者3級の手帳がほしいと主治医に相談したんです。

2回目の申請で認可され、今の会社に障害者枠で入社できました。ところが、約5ヵ月後の検査で「この数値でよく立っていられる」と。確かに頭はボーッとする、胸焼けはする、貧血は起こす。尿毒症を起こしていたんですね。すぐ入院してシャントを作り、血液透析に。半年後に復職しました。東京の腎ネフローゼの会に入って、透析のことはわかったつもりでしたが、腹膜透析のことは知らなかった。知っていれば、もっと選択肢が広がったはずですね。

選択肢の広がりは希望につながる、自分の体験を伝えてほしい

血液透析は比較的順調でした。保存期の間は食事療法がきつくて、あまり効果も上がらなかったから、とにかく家族や周囲に気兼ねなく食べられるようになったのがうれしかった。ただ、4年目くらいから、少しずつ身体に負担を感じるようになって。周囲の何人かが移植して、とても元気になった姿を見て、そろそろ考えてみようかと、両親に相談したわけです。そして、平成17年12月、母からの生体腎臓移植 を受けました。その後は親子とも元気です。

僕の場合、腎ネフローゼの会や東腎協など、同じ病気の仲間がいて、一緒に勉強したり、体験を話し合ったりできたのがよかったですね。そういう機会が増えれば、いろんな選択肢が広がって、希望が持てると思う。あまり意固地にならないでね。僕も、透析し始めた頃は、これでいいやと思ったけれど、移植したいという気持ちが湧いたとき、そういう道があるなら、考えてみていい。やりたくてもできない人もいるんですから。そして、その経験を次の人に伝えてほしいです。

動けない手を握ってくれた人たちのぬくもり

19から20歳の頃、入院中のベッドで動けない自分のために、いろんな人が会いに来てくれたんです。しゃべれないから手を握るだけのときもある。その手のぬくもりが、人それぞれ違うんですよ。「ああ、いろんな人がいるんだな」と。考える時間はたっぷりあったので、「なぜ自分は病気になったんだろう」とか「人が人を思うってどういうことなんだろう」とか。

自分は今まで、あまり真面目な人間じゃなかった。パンクバンドで突っ張って、暴力的ではなかったけれど、決して協力的ではなかった。今からでも、人に対して優しく接することができるだろうか。そう思ったら、両親や親戚や周囲の人たちの気持ちがありがたくて。仏教学部を選んだのも、そのためです。病気になってよかったとまではいいませんけど、ならなければこういう性格にもならなかったし、人とつながることもできなかった。大学も、職場も、もちろん同じ病気の仲間も、これまでの自分の道のりで出会うことができたわけで、これはこれでありかなと。

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