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患者さんの体験談~一病息災~

腎臓病と共にイキイキと暮らす方々に、腎臓サポート協会理事長 松村満美子がインタビュー
(職業や治療法は、取材当時のものです)

第56回

宮本髙宏さん(みやもとたかひろ:1958年生まれ、全腎協会長)
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「透析導入で“人生は終わった”から一転。30年後、全腎協会長として大忙し」

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1958年生まれ。大学2回生の時、急性腎炎(のちに慢性腎炎)により10カ月入院。卒業後は小学校の教師に。半年後の1982年9月、血液透析導入により退職。1983年春、自宅で学習塾を開く。1999年、兵庫県腎友会専従職員、同年に同会事務局長に。2005年から全腎協理事となり、2006年に副会長、2009年6月には会長に就任。
宮本髙宏さん

各県の腎友会を束ねる全腎協(全国腎臓病協議会)。宮本高宏さんは2年前に会長に就任、血液透析をしながら活動を続けています。今年で透析歴29年という宮本さんに、透析導入時の無気力な時期を経て、ふたたび前を向くことができたきっかけなどをお話しいただきました。

 

小学校の教員生活は透析導入により半年で断念
松村 全腎協(全国腎臓病協議会)の前会長の油井さんにも、以前「そらまめ通信」(35号)にご登場いただきましたが、週2回の血液透析で全国を飛び回っていらっしゃいましたね。
宮本 油井さんのあとを継ぎ、私は2009年6月に会長に就任しましたが、加盟県組織の研修会や講演会に出向いたり、東京での会議などで、やはり1年のうち250日くらいは外に出ていて、兵庫の自宅には透析と寝に帰っているだけですね。
松村 宮本さんはスピーチがお上手で、説得力があって素晴らしいのですが、長いのがちょっと玉にキズ。5分といわれたら、10分しゃべる(笑)。
宮本 気をつけなければいけませんね(笑)。
松村 ところでご自身は、いつごろ腎臓が悪いとわかったのですか。
宮本 大学2回生の冬です。体調が悪くなり下宿近くの病院に行ったら、尿たんぱく3+、血尿は無数で、「地元の病院に入院して療養しなさい」といわれました。実家は姫路市の北にある宍粟市というところですが、透析をしている病院を紹介してもらい、そこに10カ月間入院しました。
松村 それまで全然気づかなかったのですか。
宮本 これが腎臓病の怖いところだと思いますが、気づかなかったですね。学校検尿はなかったし、大学に入ってからも健診を受けていませんでした。思い起こせば、体がだるいことはあったかなという程度です。入院中は絶対安静で、テストのときだけ許可をもらって京都の大学に行きました。
松村 退院してからは?
宮本 大学は無事卒業し、教員免許をとり、1982年4月に地元の小学校に赴任しました。3年2組の担任として毎日子どもたちと楽しく勉強していましたが、夏休み中に体調がおかしいと感じはじめ、2学期に入って運動会の練習が始まると、頭はふらふら、放課後は上履きが履けないくらい全身に浮腫が出ました。それで近くの町医者に行って採血したら、BUNは80以上、クレアチニンが12でした。
松村 かなりつらかったんじゃないですか。
宮本 たしかに2学期が始まってからはきつかったですね。結局すぐ透析をすることになり、以前入院していた病院で1982年9月に血液透析を導入しました。その日はちょうど誕生日の前日で、23歳最後の日でした。
松村 急激に悪化したのですね。
宮本 学生時代の入院時に透析患者さんを見てはいましたが、まさか自分が透析導入になるとは全然予想していませんでした。当時は透析医療自体が今ほど技術的に高くなく、まわりも「そんなに長くは生きられない」と話していて、自分でも「これで人生は終わった」と思いました。
今はこういう立場で活動をしていますが、透析を導入したころは周りの透析患者さんを見る余裕もなかったですし、本当に落ち込みました。入院中に退職願いを書き、退院してからも、体はそんなにきつくはなかったんですが、無気力になり、何もできなくて、透析に通うだけの生活でしたね。
「自分だけ落ち込んでいるのはよくない」。自宅で学習塾を開く
松村 今の宮本さんからは、想像できない姿ですね。立ち直れたきっかけは?
宮本 ほかの患者さんに誘われて兵庫県の腎友会に入会はしていたのですが、はじめてその忘年会に行ってみると、みんな元気でそこそこ食べて飲んでいた。「ああ、透析しながらでも、こんなに元気な人がいるんだ」と知ったのが、社会復帰する大きなきっかけになりました。
もう一つは、母への想いからです。母は自宅に届いた私の身障手帳を握りしめながら、「大事な跡取り息子をこういう体にしてしまった」と、すごく自分を責めていたのです。母に元気に生きていく姿を見せなければと思いましたね。また自分なりに全腎協の歴史を読んで透析が始まった頃の悲劇的なことも知り、「自分だけ落ち込んでいるのはよくない。がんばらなければいけない」という気持ちになって、翌年の春、自宅で学習塾を開くことにしたのです。
30年前、元気な透析患者さんを知り、立ち直れましたね。
30年前、元気な透析患者さん
を知り、立ち直れましたね。
松村 ちゃんと立ち直り、学校から学習塾と場所は変わっても、先生として再スタートをきられたのは立派だと思います。人前で上手に挨拶できるのは、“先生の経験”からかしら?(笑)。ところで、学習塾はどれぐらいやっていらしたのですか。
宮本 1999年に兵庫県腎友会の専従職員になったので、16年ぐらいです。同時にそこの事務局長に就き、2006年には油井さんのもとで全腎協の副会長になりました。
松村 そのころ専従職員を置くとは、兵庫県の腎友会はすすんでいたのですね。その間、ご結婚は?
宮本 透析を導入したとき、「これで結婚はできないし、自分の子どもなんて無理だろう」と思っていましたが、お陰様で透析9年目、32歳のときに病院で働いていた看護師と結婚しました。
松村 看護師とはいえ、奥様はよく結婚を決意してくださいましたね。
宮本 妻は一回り下と若かったこともあり、深刻さを表に出さないようにしてくれてました。両親にもそんなに反対されなかったことに、心から感謝しています。2人の娘にも恵まれて。子どもができたときは本当にうれしかったですね。
松村 奥様は看護師を続けておられるのですか。
宮本 出産・子育て期以外は看護師を続けていて、今も透析クリニックで働いています。結婚したときは准看護師でしたが、私が「正看護師の資格を取ったら?」と上の学校に行くことを勧め、そのために自分でいうのもなんですが、透析と仕事をしながら子育てもがんばり、妻のレポートを手伝ったりもしました。腎友会の行事などにも、子どもをベビーカーに乗せて参加していましたね。
松村 まさにイク(育児)メンパパのはしりですね。ですが、今は家を空けることが多くて、奥様は寂しいとおっしゃいませんか。
宮本 透析というのは結構奥が深く、妻もいろいろ勉強していて、仕事がおもしろくなってきたんじゃないですかね。上の娘は母親と同じ看護師をめざし、看護大学へ進学、下の娘は人と関わるのが好きで、保育士になりたいといってます。
松村 すてきなご家族!ご両親からそれぞれよい影響を受けているのでしょうね。お母様は?
宮本 母はすぐ近くに住んでいて、出てばかりの私を心配しているようですが、こうやって元気にしているのが親孝行になっているのかなと思っています(笑)。
透析歴29年、合併症もなく経過し、「仲間のために」目標も新たに
松村 透析を導入してから、体調が悪くなったことはありませんか。
宮本 今年で29年目に入っていますが、お陰様で合併症もなく経過しています。シャントも1回ですが、最初は外シャントで、1カ月後に内シャントに切り替えました。あれはショックでしたね。包帯を開けたときに管が出ていて、完全に器械につながれて生きていくんだと思いました。
松村 1982年で外シャントとは、その病院はちょっと遅れていません?
宮本 病院の患者会の役員になったときに他の病院の情報を聞いて、遅れていると思いました。できるだけよいほうに変えていこうと思い、病院にもいろいろと意見を出しました。
松村 その病院がよくなったのは、宮本さんのお陰ですかね。日常生活で気をつけていることは?
宮本 精神的にはあまりくよくよしないこと、つねに前を向いていくこと。肉体的には基本的な食事の注意点を押さえながら、できるかぎり体を動かし、しっかり食べてしっかり透析することです。ずっと週3回、5時間透析を続けてきましたが、結構スケジュールがハードなので、透析も十分しておかなければと思い、今年から30分延ばしました。
松村 週3回、5時間半というと、長時間透析に近いですね。それで、全国を飛び回れるのかも。近年は恩恵を受けるのが当たり前になって、「なぜ腎友会に入って会費を払わなければいけないのか」という患者さんも増えていますね。
宮本 また透析患者さんの高齢化により、それぞれの医療施設で患者会を維持できなくなっているので、それをカバーする組織体制を考えていかなければなりません。全腎協は今年で創立40周年を迎えますが、そもそも40年前は透析を受けることすらできず、誰もが安心して受けられるようにすることが先人たちの目的でした。その目的はある程度果たせたので、つぎの我々の使命は一人ひとりの患者さんの生活の質を高めていくことだと思っています。
宮本 30年前、宮本さんが透析仲間から励まされたのと同じように、宮本会長の元気な姿に多くの患者さんが励まされていると思います。つぎのステップ、「QOLの向上」に期待しています。なんといっても宮本さんは、全腎協のホープなのですから! 今は宮本さんの姿に、励まされている方も多いと思いますよ。
今は宮本さんの姿に、励まされ
ている方も多いと思いますよ。
インタビューを終えて
失礼ながら、「宍粟市」と聞いてもピンとこなかったのですが、播州そうめん「揖保乃糸」の生産地とお聞きして、ああ姫路の近くとわかりました(笑)。ご両親も農業の傍ら、以前は副業として手延べそうめんを作っていたとか。今でも田んぼはやっていて、宮本さんも田植えと稲刈りだけは手伝うそうです。地元の話をされるときの嬉しそうなご様子から、すてきなご家族に加え、見慣れた風景も、宮本さんの帰りをあたたかく出迎えてくれているのでしょうね。
 

 

 

 

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