トップ > お役立ち情報トップ > 患者さんの体験談

 

お役立ち情報

PDFで閲覧する

 

患者さんの体験談~一病息災~

第7回

金子 智さん(かねこ さとる:1958年生、団体職員)

 

「透析技術は進歩しています。患者さんのほうも閉鎖的にならずに、もっと社会に向かっていってほしいですね」

一覧に戻る

 

金子 智さん 58年1月新潟県糸魚川市生まれ。
高校1年のとき義務づけられた検尿によって、たんぱく尿が出て腎臓病と診断される。大学3年の終わりに血液透析を導入。1年留年の後、卒業し、就職活動時に縁のあった全腎協に常勤の役員として入局。現在、常務理事と事務局長を兼職。会議やセミナー準備のため、毎週末全国各地に飛ぶ多忙な業務の中、今年、透析生活28年目を迎えた。
就職活動中に出会った事務局で働くことに

全腎協の事務局に入って21年になります。就職活動をしていたとき、企業の面接で聞かれるんですよ。夜間の透析は何時ぐらいから始まるか、とか、週に何回ぐらい拘束されるのか、とか。東京の施設のことは何も知らなかったので、こちらの事務局をたずねたのです。しばらくして、役員の方から、事務局に欠員がでたという連絡をもらって。あまり深く考えなかったけれど、大学を卒業してもなかなか就職先が見つからず、とにかく自立して生活しなくちゃならないもので。まあ、でも、仮に銀行とかに採用されても、リストラにあっていたかもしれないし、会社が倒産していたかもしれないし、考えようによっては、こちらのほうがよかったかなと。

夢見た田舎での一生が、病気によって一転

高校1年の健康診断でたんぱく尿を指摘され、専門医を受診して腎生検を受けました。腎臓病のことなんて何もわからなかったのですが、何年か先には透析療法をしなければならないといわれて。元来、人をかき分けてバリバリやるという性格じゃないもので、地元で公務員になって、平日は定時に帰り、休日は好きなことをして、のんびり生きていきたい、なんて子供のころから思っていました。

それが、病気になって180度ひっくり返ってしまった。友達と一緒に体育ができないといった身体のこともそうですが、これからどうやっていこうか、親に負担をかけずに独立するには、どんな仕事をして暮らしていけばいいのか、そんな不安でいっぱいでしたね。高校時代がいちばん辛かったかもしれません。

楽しかった大学生活が、透析後の自分を変えた

高校を卒業してから一人暮らしを始めました。群馬の大学に通っていたのですが、主治医の先生が非常に理解があって、「治る病気じゃないんだから、学校にはちゃんと行きなさい。病院をベースキャンプみたいに考えればいい」と。腎機能もかなり落ちていたので、長期入院中は栄養士さんにつくってもらったお弁当を持って、学校に通ったり、調子のいいときは自分のアパートに戻ったりの生活。大学の仲間や先生にも恵まれて、試験を受けられない代わりに、レポートで単位をくれましたし。

ところが、シャントをつくるための入院を、3年の後期試験が終わるまで待ってもらっていたら、入院したとたん、クレアチニン値が30ぐらいまではね上がり、大騒ぎに。そのまま透析に入って、けっきょく1年留年しましたが、それでむしろふっ切れた。就職活動はとにかく積極的に動きましたね。透析の合間に東京に出てきて、ダメもとで何でも受けてやろうと。何もしないで迷っているより、気持ちの面ではとてもラクでした。

課題は山積みでも、構えずに手助けを

就職は障害者の別枠採用で受けたのですが、当時はまだまだ透析への理解が十分ではなくて。二次試験の健康診断で、検尿はできませんと答えたら、なぜ尿が出ないのかと看護師さんから聞かれたり。でも、それでいろいろ勉強になりました。事務局にも毎日、患者さんから相談のお電話がありますが、健常者の職員が受けると「あなた透析してる?」と。透析患者さんの気持ちがわからないから、代わってくれというんですね。皆、苦労していると思います。心情的にはわかりますが、透析技術も進歩しているし、患者さんのほうも閉鎖的にならずに、もっと社会に向かっていってほしいですね。

高齢化や糖尿病合併症の増加などで、全腎協の組織も変化を迫られています。今後は患者さんだけでなく、家族の皆さんの参加も重要になってくるでしょう。また、年金や介護保険、CAPDなどによる在宅医療と、社会保障の問題も山積しています。患者さんも、健常者の方も、自分自身の問題として受け止め、わけ隔てなく、ゆとりのある生活を送っていただけたらと。そのためのお手伝いを微力ながらできればと思っています。

一覧に戻る

 

 

 

 

 

このページのトップへ