体験談 / 一病息災 Vol.116(2021年4月号)

腎臓病と共にイキイキと暮らす方々に、腎臓サポート協会理事長 雁瀬美佐がインタビュー
(職業や治療法は、取材当時のものです *敬称略)
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金子 智 さん(かねこ さとる)
一般社団法人 全国腎臓病協議会 常務理事・事務局長 

患者さんの体験談~一病息災~ vol.116

腎臓病との長い闘いを続けながら仕事に励む!

多感な高校時代に腎臓病と診断された金子智さん。保存期を経て、人工透析をしながら仕事を続け、26年間の待機後に腎臓移植を受けました。ご家族を含め、周囲の方々には感謝の気持ちで一杯ですと語る金子さん。規則正しい生活と、生き甲斐を見つけるには「仕事」がとても役に立ったと語り、現在も腎臓病患者さんへの情報発信にいそしむバリバリの仕事人です。
聞き手:雁瀬 美佐(腎臓サポート協会)

金子さんの病歴・治療歴
16歳(1973年):慢性糸球体腎炎と診断される
21歳(1979年):人工透析を導入する
 (週2回の昼間透析)
26歳(1984年):週3回の夜間透析/
 腎移植待機登録
53歳(2011年):献腎移植を受ける

腎不全がわかった頃

雁瀬 長い間、患者団体の活動に取り組まれている姿を拝見していましたが、あらためて金子さんの腎不全治療の始まりから聞かせていただけますか?
金子 高校1年生のときの健康診断で「たんぱく尿が出ていて、少し量も多いですよ」と言われました。その後、腎臓の精密検査と腎生検を2回受け、「慢性糸球体腎炎」と診断され、「将来、人工透析が必要になるでしょう」と言われました。人工透析については、ただ言葉を聞いたことがある程度でしたし、当時は、腎臓病というのは治らない病気で、人工透析も限られた人しか受けられないという時代でしたので、両親も大変不安がっていました。
雁瀬 当時の説明や治療はどのようなものだったのでしょうか?
金子 そうです。高校、大学は地方にいたので、周囲に血液透析ができる施設が少なく、受診するには長距離を通わなければなりませんでした。当時は腎臓病になると運動は禁止、塩分は一切摂ってはいけないという時代でした。受診しても薬もなく、「保存療法」という形で経過観察しながら、何か症状が出れば、それに対応するだけという状態でした。情報を得るツールが少なく、運動療法や食事療法についても医師や栄養士からの説明が主で、現在のような治療食(高カロリー食材、低たんぱく食材)は少なく、食事の管理にとても苦労しました。
 病気がわかってすぐは、まだ症状もなく、それほどつらいことはなかったのですが、周囲は勉学や就職活動にバリバリ取り組んでいたので、「うらやましいなあ」と思っていました。将来仕事に就けるのかも不安でしたし、「小さい頃からの夢もみんなこの病気で白紙になったな、悔しいな」という気持ちで、何をやっても中途半端な日々でした。
雁瀬 情報が無くて不安のほうが大きかったですね。自覚症状が出始めたのはいつ頃でしたか?
金子

金子さん

大学3年生くらいになると、食べものが美味しくなかったり、気分が悪かったり、だるかったりして、自分でも少しずつ悪くなってきている感じがしました。これからどう生きていくかという不安も増してきました。
 この頃から、少しずつ透析の準備を考えてはいたのですが、軽いストレスから症状が急激に悪化して大騒ぎになりました。クレアチニン値は30まで上がり、尿素窒素は170くらいになってしまって、よく生きていられたものだという感じでした。あまりにも急だったのでシャントも間に合わず、緊急的に腹膜透析を2~3カ月間おこない、その後血液透析になりました。保存期では、症状が安定していてもストレスなどで急速に悪化することを実感しました。

透析導入へ

雁瀬 思いがけず一気に透析導入になったんですね?
金子 はい。当時の透析は、毒素の除去率が悪く、除水量も限られていたので自己管理が出来るかとても不安でした。透析10年で「長期透析患者」と言われていたような時代でしたからあと何年生きられるのかも不安でした。実際に透析をしてみると、血圧低下やそれに伴う嘔吐、透析後の疲れなどで、想像以上に大変でした。さらにダイアライザーの膜が破れて中が真っ赤になったり、除水が不正確だったりして、透析はつくづく怖いものだと思っていました。また、当時はEPO製剤がなく貧血にも苦しみました。鼻出血もたびたびあって入院も余儀なくされました。その後、透析技術は徐々に良くなってきましたが、25年もやっていると、手根管症候群や頚椎や脊柱管の狭窄症という症状が出ました。10年ほど前には頚椎に人工骨を入れて広げる手術も受けました。
雁瀬 そんなに大変な経験をされていた中で、気持ちを保ち、希望を持つためにしていたことはありましたか?
金子

金子さん

仕事に就くことで、規則正しい生活ができました。責任を持つことや継続して業務にあたることも求められますし、収入面でも自立できますからノーマライゼーション(健常人と同じような生活をすること)という面から見ても仕事は重要なファクターだと思います。日頃は「治療を過信しないこと」です。日々の生活 や仕事で極端なことや無理をしないことが大切だと思います。
 透析機器や腎臓病の薬剤については、大きく進歩してきました。よく腎臓病の先生が「長生きをすれば、長生きをしただけ医療の恩恵を受けられますよ」と言われるのは、この医療技術の発展ということなのだと実感しています。治療と仕事を続けてこられてよかったなあとつくづく感じています。

腎臓移植への希望と感謝

雁瀬 1日でも長く生きることが新しい治療につながることは多くの患者さんにお伝えしたいですね。あきらめないでと。そして、長い待機期間を経て移植後の今はいかがですか?
金子 長い間、健康というものを知らない自分の人生を考え、「透析をしない生活」に憧れがあって、以前から献腎移植を望んでいました。透析をしながら26年間待ち続けました。日本臓器移植ネットワークから2回ほど準候補者として連絡は来ましたが、第一候補者としての連絡は2011年春でした。
 移植を受けて一番大きな変化は、週3回透析のための通院が無くなったことです。飲水制限も無くなりました。逆に水分を多く取るよう指導を受けていますが、意外と飲めないので苦労しました。体重測定、血圧管理、感染予防なども自己管理です。それと透析期間中は排尿することがなかったので、移植後、排尿の習慣をとり戻すことが結構大変でした。薬も、決められた時間に服用するよう指導を受けています。不明なことがあれば必ず病院のレシピエントコーディネーターに相談します。よく、移植を受けるとすっかり健常者になるかのように言われますが今まで以上に自己管理が必要です。
 移植後は、フルタイムで働いていますので、土日の会議や残業もあって無理をしているかもしれません。どんなに忙しくても疲れたと感じたときには体を休めるようにしています。精神的にもイライラしない、怒らないよう意識していますし、周りの人とのコミュニケーションを大切にしています。
雁瀬 慢性腎不全と闘う患者さん、読者に向けてメッセージをお願いします。
金子

金子さん

発病してから今日まで、家族、友人、医療者、職場の同僚など多くの方に助けていただきました。また、ドナーやそのご家族にも感謝しかありません。仕事を通じて社会にお返ししたいと思って過ごしています。
 今、日本は世界一と言われるほど透析技術が進歩し薬も進歩しました。しっかり治療を受ければ、時間的拘束はありますが健常者に近い生活が続けられます。特に若い方には、後悔しないように人生設計をしっかり立ててほしいと思います。

インタビューを終えて

40年も前の透析導入は情報も選択肢も無く、技術も優れていない中、とても苦労されたと思いますが、だからこそ、本当に長い間、腎臓病と闘いながらも多くの患者さんのために笑顔でお仕事をされていらっしゃいます。カメラを向けたときのシャイな雰囲気と「多くの腎不全患者が命を懸けて活動してきたからこその今があることを忘れないでほしい」との力強い言葉が印象的でした。腎不全治療の歴史を語り、「夢を持って」と多くの患者さんにメッセージを送る金子さん、生きていてくださってありがとうございます。

 

雁瀬美佐

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