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患者さんの体験談~一病息災~

第21回

鈴木良子さん(すずき りょうこ:1949年生まれ)
HD→PD

 

「私の人生、自分でデザイン ~34年間の血液透析(HD)生活から腹膜透析(PD)へ」

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鈴木良子さん 1964年、高校1年生でネフローゼと診断される。26歳で血液透析(HD)を導入。以来、2009年5月まで34年間HD生活を続けたが、昨年、自らの意思で腹膜透析(PD)に変更した。現在、兄夫婦と三人暮らし。千葉県南房総市在住。
透析との幸福な出合い

千葉県館山市にある原クリニック。隣の南房総市から毎週1回、颯爽と愛車を駆ってやってくるのは、鈴木良子さん。昨年5月までは、週3回通院し、血液透析(HD)治療を受けていましたが、「通院回数が減って、本当に時間にゆとりができました」と笑顔いっぱいです。34年間続けたHDから腹膜透析(PD)へ。自らの決断でした。それには、どのような心境の変化があったのでしょうか…。

発病は高校入学後1ヵ月経った頃のこと、突然異常なむくみが出て入院、ネフローゼと診断されました。夏休みいっぱい休養を取って2学期から学校に復帰。むくみ以外の自覚症状はないと感じていたからです。しかし、卒業まで漕ぎ着けたものの、「いま考えると体はきつかったと思います」と振り返ります。そして、今度は20歳の時、血圧が、上は250~260、下が130まで上がり、大学病院へ入院。ここで腎生検を受けました。両親は医師から「30歳までに透析になるでしょう」と告げられていましたが、26歳の秋から冬にかけて数回続けて風邪を引いたことがきっかけで、体調が急激に悪化、春になっても回復せず、食事も摂れない状態となり、自宅により近い病院でついにHDを導入することになりました。

でも、鈴木さんと透析は幸福な出合いをしました。食事が喉を通らず、病室のベッドの上の机には、いつも昼食と夕食が置いたままになっていました。それが、HDを1回行っただけで、「お腹空いた!」と食欲が出たのです。その日は、残っていた2食分を一度に平らげてしまいました。久しぶりにおいしく感じた食事でした。「『こんなに素晴らしい器械があるのね』と感激、すごくうれしくなったことをよく覚えています」。食事が摂れるようになるとメキメキ元気になり、病院から自動車教習所にも通いました。「病院にいても暇ですし、これから病院に“おつとめ”しなくてはならないから、免許は絶対に必要だと思ったの。外シャント、内シャントの手術後でしたから、両腕包帯グルグル巻きでハンドルを握っていました(笑)」。

「『私に透析は合っている!』と思いましたね。HDを始めてから34年間、入院したのは熱を出したときのたった1回、1泊だけです。導入後は食べられなかったり、具合が悪いということはほとんどなかったです。恵まれていたと思います」。

時間がほしい---自ら決断した治療法変更

このように、何もかも順調にHDを続けていた鈴木さんが「治療法を変えよう」と決心したのには、周囲の環境の変化がありました。2007年、それまで約10年間、介護をしていたお父様が100歳で亡くなられたのです。いくら元気とはいえ、HDに週3回通い、家事をこなし、何よりお父様のお世話がある。この10年は、まったく自由時間がない10年でした。

夜できるAPD(就寝中、自動的に透析液バッグの交換をする腹膜透析)

PDのことは、HDを続けながらも病院内の様子をちらちら観察しながら、「夜できるAPD(就寝中、自動的に透析液バッグの交換をする腹膜透析)だったら昼間は自由なのね。これだったら旅行にも行けそうだわ……」などと、着々と進歩していくPD情報をチェックしていました。「PDは自分でする治療ですから短時間でも集中が必要、父から目が離せない生活では無理だと思っていました。父が亡くなってポカーンと時間ができた。また、HDの進歩も昔ほどなくなったような気がして、自分自身が行き詰まりのようなものも感じていました。34年間、旅行も何もしたことがなかったですから、『これからは、自由に行動したい!』と強く思ったのです。『PDを始めるには、いまが最後のチャンスだ』とひらめいたんですね」。

主治医に相談すると、「本当にPDを希望されるのですか。余り前例もないし…」と、最初は首をひねられてしまいました。しかし、どうしてもPDに移行したかった鈴木さんは、先生のお尻をたたくように、「カテーテルを入れる手術日、早く決めてください」などとお願いして、ついに昨年(2009年)4月、カテーテルを入れる手術を受けました。「実際、不安は不安でしたよ。PDは、透析を最初に導入する人が“PDファースト”として選択されることが多いことも知っていましたし…。でも、失敗してもHDに戻ればいいのですから、後悔するよりはチャレンジしてみる方がいい、と思いました。何より、自由に過ごせる時間がたっぷりほしかったのです。どこへ行くにも、まず透析があるから…と躊躇することをもうやめたかった…」と鈴木さんは当時の心情を打ち明けてくださいました。

翌5月、1週間の通院で手技をマスター。そして、6月、ついに鈴木さんのPDライフがスタートしたのです。「APDのセットも最初はチンプンカンプン。でも、導入時の親身な指導と、真夜中でも本当に親切に気持ちよく対応してくれるコールセンターのおかげで、すぐに慣れました」。

PDが創り出してくれた人生の時間

APDの器械は『ゆめ』という名前なのですが、PDになってからはまさしく夢のよう。第一に『時間がある』、第二に『食べ物がラク(特に果物)』、第三に『データの数値がよい』のいいことづくめです。データは「これが私のデータ?」と目を疑うくらい。それに、皆さんに言われるのは顔色がよくなったということ。もちろん、体調のよさを実感しています」。

「旅行に行きたい」との思いは、PDを導入した2009年6月から早速実行。APDの器械を車に積み、埼玉県の親戚宅に1週間滞在。2回目は延長して10日間、やはり親戚宅をベースにして仙台、郡山を旅しました。「本当に楽しかった!」と目を輝かせて語ります。「唯一残念なことは、APDの器械が大きすぎて自分で担げないこと、小型化して自分で持てたら、もっと行動範囲が広がりますよね。これは今後の進歩を期待しています。でも、行ったことがないところ、見たことがないものを体験できて本当に幸せ。旅行って気分が変わるんですね。最高です。いまはいろいろなところへ行ってみたいですね」。近くでは坂東三十三箇所すべての札所を巡拝、今後も四国の旅などを着々と計画中です。

鈴木さんの行動計画は旅行だけではありません。地元の合唱団に入って思う存分声を出すことも始め、さらに友人が主宰しているお年寄りのためのボランティア活動にも加わる予定です。「いろいろと触覚を伸ばして、自分にあったものを探してみたいですね」。

同じ患者さんへのメッセージとしては、「『PDにチャレンジしてみてもいいのでは?生活も気分もが変わると思います』ということでしょうか。同じ一生なのだから、自分で納得できる人生にしたい。PDが私の人生の時間を創り出してくれました。今後、少しでも長く続けられたら、と願っています」。

 

 

 

 

 

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