腎臓教室 Vol.22
日本の透析の歴史
第50回日本透析医学会(鈴木正司会長)が第48回日本腎臓学会(下条文武会長)と合同で、6月23日から26日まで、パシフィコ横浜で開催されました。16,000人以上の医療関係者が集まり、特別講演や、教育講演、シンポジウム、ポスターセッション、企業展示、一般演題と、盛りだくさんな内容が、朝から夜までびっしり、広い会場の各所で行われ、大変な熱気に包まれました。今回は、記念すべき50回ということで、世界の透析の歴史、昔使われた機器の展示が目をひきました。いまや多くの方が当たり前のように受けている透析療法の歴史を、この展示をもとにひもとき、昔の透析と今の透析の違いを知り、いかに透析治療が進歩したかを感じていただければと思います。
透析医療が進歩したのは最近のこと
より快適な透析ライフを目指して、血液透析も、CAPDも進歩を続け、QOLも高まってきています。展示品の中でも、その昔の“生命を維持できるだけがやっと”といった頃の大きな機械が注目を集めていました。こうした機械は100年も前のものではなく、つい20~30年前まで使われていたものであり、50回目を迎えた透析医学会(スタート時は人工透析研究会)も、年2回開かれていた頃もあり、37年の歴史しかありません。それ以前の腎不全は、尿毒症で死を待つだけの恐ろしい病気だったのです。それが今や日本だけで透析治療をしている人は25万人もいます。透析研究会が発足した頃、透析治療を受けていた人は全国で5,000人もいませんでした。しかも当時の人工腎臓(透析の機械)は数が少なく、医師たちが集まって、だれに透析をし、だれに透析をしないか、選別をしていた時代でした。働き盛りの男性には導入しても、女、子供、年寄りは透析してもらえない、選ばれた患者だけが受けられる治療法でした。しかも「金の切れ目が命の切れ目」、といって、自己負担で大変な費用がかかりました。
戦争が透析医療を進歩させた
腎不全の治療法には血液透析とCAPDと移植があり、どの治療法を選択するかは患者の病状、ライフスタイルや、性格を加味しながら、最も適した治療法を医師と相談して選択するのが望ましいとされています。歴史的にみると、腎不全の治療でもっとも古いのは、犬で実験的に行われた腎移植が1902年、また、1912年にはアメリカで血液透析が行われたとありますが、血液が固まるのを防ぐヘパリンといった薬も当時はなかったはずですし、成功したとは考えにくいのです。1918年にはドイツでガンター医師が腹膜灌流法を見いだしたといわれていますが、血液透析もCAPDも、実際に治療法として確立したのはずっと後の第二次世界大戦後なのです。第二次世界大戦中、爆撃のショックや負傷で、急性腎不全を患う人が急増し、ドイツに占領されていたオランダで、コルフ医師が開発したコイル型の人工腎臓、ドラム缶ほどの大きさの洗濯機のような機械で尿毒症になった人々を救ったとあります。今回展示されていたコイル型は、つい20年ぐらい前まで実際に使われていたものでした。
透析治療が飛躍的に発達したのは朝鮮戦争とベトナム戦争の時で、急性腎不全の死亡率が半減したといいます。1960年代になると、企業も、透析用の機械や透析液の開発を積極的に行うようになり、血液透析もCAPDも、単に延命のための手段にとどまらず、QOLに寄与する治療法となっていくのです。患者も、ぐんぐん増えていきました。
わが国では、1967年に、血液透析が健康保険の適用となり、遅れて1980年から日本に導入されたCAPDも1985年には保険の適用となりました。 初期の透析医学会の会長を務められた先生方も会場に来ておられ、感慨深げに、「患者と一緒になってセロハンを張って透析をしたもんだ」と、昔ご自分でも使われた機械の前に立ちつくしておられました。
透析の機械も透析液も、次々患者に優しい良いものが開発されてきています。が、現在の透析治療ができるようになった背景には、医師と患者、看護師、技士たちの、血のにじむような苦労と、合併症の克服など、一歩一歩前進してきた長い道のりがあってのことでした。今日の透析が、そのような先人たちの苦労の上にあるということを忘れてはならない、この展示を見ながら、そんな思いを新たにしたのでした。