心に残る患者さん ~ドクターズエッセイ~Vol.102(2018年12月号)

ドクターが忘れがたい患者さんについて語るリレーエッセイ。
(先生の肩書は掲載当時のものです)

柏原 直樹 先生   

川崎医科大学
腎臓・高血圧内科学 教授

大切なことをお教えいただいた方々に

 日本の透析医療は世界で最も良質であり、透析を受けながら長命を果たすことができるようになりました。私が研修を始めた80年代初頭はそうではありませんでした。忘れられない光景がいくつもあります。

 研修医の日課は透析室でのシャントの穿刺と腹膜透析の管理でした。CAPDの技術が開発される以前のことです。腹膜に開けたトンネルから、毎回カテーテルを自ら挿入し、透析液を温め、数十分ごとに交換するのが、研修医の役目でした。

 小児科病棟に5-6歳の男児がいました。処置を行う間、ほとんど会話を交わすことなく、じっと私の方を見ています。私を見ていたのか、もっと遠くを見つめていたようでもありました。数時間たち、つきそう母親と短い会話を交わし病室を去るという毎日でした。半年ほどたった冬のある日、小児科病棟から訪室の必要性がなくなったことを知らされました。その後、母親とお会いする機会はありません。病室にたたずむ母親の姿と子供とは思えない静かなまなざしを思い出します。

 研修を終え、大学に戻りましたが、腎臓病と並んで膠原病を専門とする教室であったため、膠原病の患者さんも多く入院されていました。多くは女性であり、育児期の方もおられました。Oさんもその一人です。腎不全も併発し、複数の合併症もあり良好な状態ではなく、入院も長期に及んでいました。休日には、まだ幼い女児が祖父に連れられ見舞いに来ていました。夕日の差し込むひと気の少ない食堂で、3人が慎ましく過ごす姿を何度か目にいたしました。留学のため大学を辞する挨拶をしたところ、謝意を伝える短い手紙をいただきました。文面を今でも良く記憶しています。帰国後、その後の経緯を知らされました。あの時の女児は、今では母親になっているのかも知れません。母親の記憶をどのように思い出しているのだろうかと思いを致します。

 約30年の間に、医療は随分と進歩いたしました。血液透析、CAPD、共に機器や透析液の改良にはめざましいものがあります。透析を受けながら、健やかな日々を送ることができるようになりました。移植腎の生着率も格段に高まりました。私自身も腎臓病の成因、病態の解明、治療法の開発研究の片隅に身をおいてきました。どの様な貢献ができたか自問すると忸怩(じくじ)たるものがあります。

 私共は、今年、新たにNPO法人日本腎臓病協会を設立いたしました。目標は「腎臓病の克服」にあります。病気は何であれ、不条理であり、なぜあなたがこの病気になったのか、その理由を説明することはできません。完治を可能にする画期的な薬剤の開発、病因の完全な解明には、もう少し時間を要するかもしれません。しかしそれらを待たなくても疾患の「克服」は可能ではないか、その方法を模索しています。「病気と闘うあなた方をひとりにしない」が、この協会のメッセージです。私に多くの大切な真実を教えてくれた、子供達を含めた、患者さんとご家族は、心の中に生きています。現役を終えるまでに何らかの報告を果たしたいと考えているところです。

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