心に残る患者さん ~ドクターズエッセイ~Vol.108(2019年12月号)

ドクターが忘れがたい患者さんについて語るリレーエッセイ。
(先生の肩書は掲載当時のものです)

鈴木 正司 先生   

社会福祉法人新潟市社会事業協会
信楽園病院顧問

片眼を失明、両手のバネ指でも包丁を握り続けた板前さん

 ある日、佐渡から大き目の封書が届いた。なかには祭り袢纏(はんてん)を羽織った破顔の青年が、同僚の担ぐ神輿の上でポーズをとる写真が載った小誌があった。紛れもなくあの患者さんであった。彼は信楽園病院で透析を開始し、市内の関連透析施設を経て、ようやく故郷の佐渡にも透析施設ができたことから、佐渡へ帰っていた。元気で地域起こしの中心で頑張っていることを知らせるものであった。

 京都の老舗料亭で修行してきた板前の腕を生かして、早期から夜間透析に移行し、市内のホテルで料理人として仕事を始めた。腎不全や透析に関する初期教育では、調理師としての基礎知識があったためか、食事、生活面での自己管理をよく理解し、それを几帳面に実践できる患者さんであった。いつも「国のお金で治療が受けられる」ので、「自分もできることはやらなくては」と話していた。地元に戻って、佐渡の新鮮な食材と自慢の料理の腕を生かして、奥様(元は当院の透析室ナース)と二人で小料理屋を開業した。お店は、佐渡病院を訪問する方々の間では結構な評判になっていた。透析8年目の頃に、乞われてそのお店を一度だけ訪ねたことがあった。わざわざ臨時閉店にして歓待を受ける結果となり、大変恐縮であった。

 彼の透析導入は昭和46年で24歳であったが、全身倦怠、肺浮腫、食思不振、頭痛、鼻血、歯齦(しぎん)出血などの典型的な末期尿毒症の症状が見られ、BUN 140mg/dl、Creat 17.2mg/dl、血圧190/100mmHgであった。透析への導入は順調で、貧血を除き全身状態は急速に改善した。しかし8ヶ月後には心外膜炎から心タンポナーデを発症し、緊急に心嚢開窓術を受けて救命された。また、透析開始時に喘息様の呼吸苦が生じ、酸化エチレン(EO)に対するアレルギーが疑われて、EOへの暴露を遮断することで症状は消失したエピソードもあった。

 佐渡での長期透析を継続中には、12年目で急激な視力低下(網膜中心静脈閉塞症)から右の眼が失明した。同じ年には副甲状腺摘出術も受けた。更に15年目になると手根管症候群やバネ指が発症して手術を受けた。24年目には僧房弁狭窄症のため大学病院で弁置換術を受けた。26年目には再度の両側のばね指の手術も必要になった。新たな合併症が出現する度に、奥様からアドバイスを求める電話があり、その都度、その時点で判っている合併症の病態や対策について、できるだけ詳細にお返事をした。

 それにしても包丁を使用する料理人にとっては、片眼の失明や、手指の運動可動域の障害は…彼の生活基盤を失わせる程の厳しいものであったはずであるが、彼は持ち前のポジティブ思考で、めげずに仕事を続けていた。29年目のある日の奥様からの電話で…進行胃がんが見つかったとのことで、今度は返事の仕様がなかった。残念ながらその年に、彼のポジティブ思考の「闘病生活」は終わったが、そのインパクトは今でも強く残っている。

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