体験談 / 一病息災 Vol.118(2021年10月号)

腎臓病と共にイキイキと暮らす方々に、腎臓サポート協会理事長 雁瀬美佐がインタビュー
(職業や治療法は、取材当時のものです *敬称略)
  • 移植

倉岡 一樹 さん(くらおか かずき)

患者さんの体験談~一病息災~ vol.118

「健康より原稿」から「原稿より健康」へ
母からの腎移植に感謝と悔悟を込めて書き続けたい

新聞記者として激務をこなす中で糖尿病を発症し、その後慢性腎不全へと進行しました。母からの腎臓移植を一度拒んだ倉岡さんは、医師の説得や母の思いに触れて提供意思を受け入れます。移植後は取材にも復帰するほど回復し、臓器移植者としての体験を書き続けています。
聞き手:雁瀬 美佐(腎臓サポート協会)

年齢(西暦)病歴・治療歴クレアチニン尿素窒素
1977年生まれ〈29歳(2006年)糖尿病と診断される〉
39歳(2017年)体が急速にむくみ、75Kgだった体重が115Kgになって近医受診
日本医大武蔵小杉病院を紹介され入院、在宅での保存療法開始
2.0630.4
40歳(2018年)透析導入が近いと説明される3.9329.6
41歳(2018年)先行的腎移植への準備開始4.9931.4
42歳(2019年)生体腎移植手術前日8.7755.5
生体腎移植手術から4日後1.0610.5
43歳(2021年)生体腎移植から約2年1.4722.5

仕事第一で体調管理をおろそかに

雁瀬 倉岡さんがご自身の闘病生活を克明に発信している記事を拝見していましたが、とてもお元気そうですね。今日は、腎臓病との闘いの始まりから今までのお話を改めてお聞かせください。
倉岡 新聞記者として名古屋へ単身赴任していた2016年の夏、足の甲がむくんで靴に入りにくくなりました。これが最初の気づきです。体調に変化がないので「疲れだろう」と思っていました。しかし2カ月もすると呼吸が苦しくなり、年末には長い横断歩道を渡ることができなくなるほど体が重くなりました。ただ、病気と診断されると仕事ができなくなるとの不安から「忘年会続きで太ったのだろう」と自分を信じ込ませていました。実は2006年に糖尿病と診断されていたのですが、その後、体に変化がなかったため忙しさにかまけて病院から足が遠のきました。当時は仕事が何より大事だったのです。振り返ると「何をしていたのだろう」と思います。発病から10年後にむくみがひどくなり、駆け込んだ病院で「糖尿病性腎症の発展形としてのネフローゼ症候群です」と診断されました。糖尿病が悪化すると腎臓にダメージが来ると知ってはいたのですが……。

突如示された先行的腎移植の選択肢

雁瀬 そこから本格的な治療が始まったんですね。
倉岡

倉岡さん

そうです。大きな病院での治療が必要となり、家の近くの日本医大武蔵小杉病院を紹介してもらい入院しました。「糖尿病性腎症による慢性腎不全」と診断され「人工透析を視野に入れる必要がある」と告げられました。目の前が真っ暗になり「もう記者の仕事はできない。人生は終わった」と思いつめました。入院中は体から水を抜く治療を中心に、退院後は薬剤治療を中心に、保存期治療が1年半以上続きました。主治医から「遠からず人工透析をする日が来ます。血液透析か腹膜透析、どちらにしますか?」と問われたので、糖尿病のある私は血液透析を希望しました。翌年主治医が変わり、「人工透析を経ない先行的腎移植も考えてみてください。透析よりも予後が良く、仕事をしている倉岡さんにはメリットも大きい」と勧められ、聖マリアンナ医科大学病院の腎移植外来を紹介されました。
雁瀬 移植の選択肢が提示された時のお気持ちは?
倉岡 絶対に嫌だと思いました。家族に迷惑を掛けたくなかったので「献腎移植なら」と思いましたが、最初の診察で「血管が献腎移植を待つ十何年間ももちません。生体腎移植を考えてください」と言われました。妻から提供すると言われたのですが、医師が母からの移植を勧めたので困惑しました。母からも「あげるわよ、腎臓」と切り出されてしまい「まずいことになった」と。その後、母もたんぱく尿が出ていたことがわかったのですが、ドナーになるため1日2万歩近く歩いてダイエットをしてくれました。それで大幅に改善したのです。
雁瀬 お母様の覚悟が伝わってきますね。お母様もドナーになるための運動療法と食事療法でご自身の体調をも改善することができたんですね。
倉岡 母の体を傷つけることに納得がいかず、何度も「いつでも止めていいから」と言いました。その都度母は「なんでそういうことを言うの!」と怒りました。進むも地獄、戻るも地獄という状態で、つらかったですね。何も考えられず、体も悪くなる一方です。無理に仕事に行っても、帰宅してすぐに横たわるという状態でした。「このまま死ぬのかな」と思っていました。
雁瀬 一方でお母様からの腎臓移植に向けた準備が進むわけですが、どのように過ごされていましたか?メンタルのケアもご苦労されたと思いますが。
倉岡

倉岡さん

移植を決めたのは2018年の11月で、移植手術が2019年の8月8日でしたので、普通の人よりも長いと思います。普通は半年くらいだそうです。体もぎりぎりでした。妻に迷惑を掛けたくない一心で、毎食自分で作リました。茹でた鶏肉にお酢を掛けて食べるのが好きでそればかりでしたが、エネルギーも塩分も少なすぎたかもしれません。心はずっと沈みっぱなしです。「私がいることで周囲に迷惑を掛けている」「私などいない方がいい」とか。最近取材した腎臓内科医が「慢性腎臓病の人はうつになる傾向が高い。倉岡さんもきっとそうなっていたんだと思う」と話してくれ、合点がいきました。

移植を受けて胸に刻む感謝と悔悟の念

雁瀬 実際に腎臓移植を受けられた時、そしてその後の体調の変化はいかがでしたか?
倉岡 あきらかに違うと感じたのは手術から2日後でした。めまいなどの症状がスッと消えたのです。立てるし歩けるし「ああ、こんなに良くなるのか」と驚きました。その後は拒絶反応もなく、病院に行く度に「お母さんの腎臓はすごいね」と言われています。母も元気に過ごしています。家族で会いに行きますが、私が記事を書くことを喜んでくれています。母には感謝の気持ちでいっぱいですが、悔悟の念は消えません。
雁瀬 本当にお元気そうな姿でびっくりしました。
倉岡 職場でも「生き返ったね」と言われます。しかし最初から「原稿より健康」の意識を持っておけば、ここまで多くの人に迷惑を掛けていません。悔やんでも悔やみきれません。「腎臓は物言わぬ臓器」と言いますが、その通りだと実感しています。

社会を変えるために取り組む臓器移植取材

雁瀬 移植を受けた立場での記事を多く書かれていますね。
倉岡 移植を経験された先輩方にお話を伺うと、私と同様に当初は医師から移植の選択肢を示されていない方が結構いることに驚きました。医師の専門によって提示する治療の選択肢が違うことに違和感があります。その後、私は信頼できる今の主治医に巡り会えました。治療の選択肢を提示し、良い点と悪い点を話した上で「倉岡さんはどうされますか?」と委ねてくれました。保存期にこの先生に出会っていれば違ったのではないかと感じています。
雁瀬 今、患者さんが自分の価値観や希望を伝え、医師としっかりと話し合って治療選択をする重要性が広がりつつあります。
倉岡

倉岡さん

移植という選択肢があることと、実際に経験した私が「今こうやって生きている」ということ、臓器移植が社会の中でどういう立場に置かれているのか……。それらを社会に伝えることが腎移植を受けた私の使命だと考えて記事を書いています。献腎移植は約15年も待つことや、意思表示カードを持つ意味を一人でも多くの人に知ってほしいです。それが移植を待ち望んでいる仲間のために臓器提供を増やすことにつながると信じています。社会を変えたいのです。それは腎臓をくれた母への恩返しでもあります。

インタビューを終えて

倉岡さんがとてもお元気で驚きました。知らなければ、壮絶な闘病や移植を受けたことはわかりません。葛藤や悔悟も痛いほど伝わってきましたが、健康回復と社会復帰を果たした今、自分の体験からの反省やメッセージで患者さんの立場や社会を変えたいという前向きなパワーに溢れていました。倉岡さんの言葉が、多くの患者さんに希望をもたらすことを願っています。

 

雁瀬美佐

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