体験談 / 一病息災 Vol.120 – 腎臓サポート協会WEB

体験談 / 一病息災 Vol.120

腎臓病と共にイキイキと暮らす方々に、腎臓サポート協会理事長 雁瀬美佐がインタビュー
(職業や治療法は、取材当時のものです *敬称略)
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戸倉 振一さん(とくら しんいち)

患者さんの体験談~一病息災~ vol.120

仕事・趣味・社会貢献
病気を受け入れ前向きに生きる達人

高校時代はサッカー部、大学時代はテニスやスキー。就職後もヨットや山登りを楽しむスポーツマン。長い保存期を経て、39歳の時に血液透析を開始されました。以来23年、お仕事はもとより、患者会の活動や地域の取り組み、日本舞踊や合唱団「第九を歌う会」などでますます大忙しの63歳。前向きに精力的に今を生きていらっしゃいます。
聞き手:雁瀬 美佐(腎臓サポート協会)

年齢(西暦)病歴・治療歴
高校生の時から健康診断でたんぱく尿が出ていたものの血液検査では異常なし
22歳(1981年)頃職場の健診でたんぱく尿が出て慢性腎炎と診断される
32歳(1991年)強烈な頭痛。血圧200超、眼底出血
大学病院で慢性腎不全と診断される(クレアチニン4、eGFR13)。食事療法開始
39歳(1998年)疲労と風邪から腎機能が急激に悪化。血液透析開始
63歳(2022年)週3回、1回4時間の血液透析24年目

たんぱく尿が出ていても

雁瀬 戸倉さんが腎臓病かもしれないと気づかれたきっかけを教えてください。
戸倉

戸倉さん

小さい頃からスポーツが大好きで高校ではサッカーをやっていました。健診でたんぱく尿が出るのですが、激しいスポーツをやっているからだろうと思ってのんきに過ごしていました。社会人になっても、健診でたんぱく尿が出て、医師からは「腎臓がザルのようになっていて、尿にたんぱくが漏れている」と言われましたが、血液検査では異常ないし、自覚症状もなく、自分は健康だと信じていました。この時、簡単な食事指導があっただけで、具体的な栄養指導や人工透析の可能性についての説明はありませんでした。この頃にもっと具体的な食事療法や生活指導があり、自分も腎臓病の自覚を持っていればと悔やまれます。
雁瀬 社会人になられてから病気が進行したのですね?
戸倉 20代後半くらいから、就寝中に吐き気、朝起きると頭痛がある日があったのですが、午前中休むと治まったので、午後には出社していました。30歳頃の健診で、たんぱく尿があり、血圧も高いので「要精密検査」と言われましたが、この時は、多忙で受けられませんでした。そして32歳のある日、夜中に吐き続け、翌日強烈な頭痛が治まらず、近くの内科を受診したところ血圧が200以上で眼底出血もあったため大学病院の腎臓専門医を紹介され受診しました。「慢性腎不全」と診断されましたが、その時の治療は血圧コントロールが中心で、低たんぱく・低塩・高エネルギーの食事を指導されました。同じような強烈な頭痛を2度と経験したくないと思い、パソコンで食品交換表のデータを自動計算できるプログラムを作り、かなり厳格な食事療法をしたところ、食事療法の効果はすぐに現れ、検査値も良くなったので主治医にも大変驚かれ、大学の研究会に呼ばれて発表をしたほどです。
雁瀬 お仕事への意欲や責任感があるからこそ、とてもつらかったのではないですか?
戸倉 この頃は、夜8時頃に寝ないと翌日は仕事にならないほど疲れやすく、精神的にも不安定な時期でした。当時、橋梁メーカーの設計部門にいましたが、慢性腎不全と診断されてからも、担当となった業務は責任を持って果たしていました。ただ、はじめは配慮されていた業務量がだんだん増えてきたので、心身を疲れさせてはいけないという思いと、業務をこなしていかなければならないという葛藤がありました。

血液透析で心身が健全に

雁瀬 透析はいつどのように始められましたか?
戸倉

戸倉さん

38歳くらいの頃、疲労と風邪が引き金となりクレアチニン値がどんどん上昇して、病院から緊急入院するように連絡がきました。しかし、仕事のキリが悪く、予定していた次の診察日まで入院を先延ばししましたが、出張先で同僚に合わせて歩くだけでも息切れがすることに、病状が相当悪くなっていることを感じました。診察予定日に診察を受け、翌日入院したとたんに、貧血が進んでいたことと、気が抜けたこともあり、全く歩けなくなりました。ヘマトクリットは18、クレアチニンは30ほどになっていました。残り少ない腎臓の機能を使い果たし、まさに精魂尽き果てて身も心もボロボロという感じでした。当時、治療方法には腹膜透析があることも知っていましたが、できるだけスポーツを続けたいという気持ちを優先させ、腎代替療法は血液透析と決めていました。
雁瀬 長い間抵抗していた透析を開始されていかがでしたか?
戸倉 透析初日に血液が自分の体から出ていくのを見て、「あー、ついに来たか」と感じましたが、なんと表現してよいのか言葉にはなりません。
 退院直後は自転車にも乗れませんでしたが、1カ月間の自宅療養中に水泳を始め、1kmも泳げるようになりました。続けているうちに体力も気力も徐々に充実してきて、仕事に復帰できました。会社が私の病気に対して理解があったことにも救われました。
 透析に慣れてくると体調はものすごくよくなり、透析室がまるで楽園のように思えました。仕事に追われていた日々と比べ、透析中は電話も一切ありません。この静かな時間を読書にあて、社会常識的な本や司馬遼太郎の歴史小説を読破しました。血液透析によって人間らしい生活を取り戻せたことに感謝し、少しでも社会貢献がしたいと考えられるようなりました。「もう少し早く透析を始めていてもよかったのに」と家族からも言われます。

治療と社会貢献

雁瀬 今の治療と生活について教えてください。
戸倉 現在も週に3日、1回4時間の血液透析を続けています。この透析でどのくらい生きていけるか、今や自分自身の興味の一つです。体調は悪くないのですが、朝起きて階段を降りる時は「よいしょ」という感じで動きが悪いですし、今まで通りできない自分には落ち込みもしますが、今の自分を受け入れ、それなりに社会貢献ができればと思っています。
雁瀬 本業のお仕事以外にも患者会や福祉活動、50歳を過ぎてからも新たなご趣味も始められてご多忙ですね。
戸倉

戸倉さん

透析開始後、透析患者や社会制度に貢献する患者会の活動を知り、東京都腎臓病患者連絡協議会(現在のNPO法人東京腎臓病協議会)に参加し始めました。さまざまな人と交流し、透析患者がより良い生活を送るコツを学び、人間的に成長することができたのは、病気になったからこそ得られたことと前向きに考えています。今は会長として、災害時に透析医療を確保するための透析患者の自助についての啓発を重点課題として取り組んでいます。
 日本舞踊を始めたのは、知人の紹介で見た舞踊の公演で、日本の美や伝統の素晴らしさに気づいたのがきっかけです。人間的に非常に素晴らしい指導者に出会えたことも今の充実した生活に結びついています。合唱団「第九を歌う会」では、他の地域の方たちと合唱を通じて交流します。音大の先生に指導を受け、叱咤を受けながらも結構楽しんでいますよ(笑)。日本の伝統を少しでも伝え残すことも一つの社会貢献だと考えています。

自分の価値観にあった治療選択で前向きに

雁瀬 最後に、ご自身の経験から慢性腎臓病の患者さんにメッセージをお願いします。
戸倉 今思えば、あの時こんな情報があれば、こんな指導があれば、重症化が始まっているサインに気づきもっと早く治療を始めていれば、と思います。自覚症状のない腎臓病の怖さを伝えることは難しいですが、私たち経験者が伝えていかなければいけない重要なことでもあります。透析になれば、色々な制約がありますが、何事も前向きに考えて生きていくのが良いと思います。今は、患者と医療者が共同で治療法を決定する時代になってきています。自分の価値観にあった治療を選択し、より良い人生を送れるようにしていただきたいと思います。

インタビューを終えて

背筋が伸び、しっかりとした足取りのお姿は、23年もの血液透析歴を感じさせません。ご自身の興味や趣味の範囲も広く深いのですが、誘われたり縁があって参加した活動が多いそうです。必要とされる人望の厚さと必要とする方への貢献を惜しまない姿勢は潔く、あらためて前向きに生きる大切さを教えていただきました。

 

雁瀬美佐

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