体験談 / 一病息災 Vol.122(2022年10月号)

腎臓病と共にイキイキと暮らす方々に、腎臓サポート協会理事長 雁瀬美佐がインタビュー
(職業や治療法は、取材当時のものです *敬称略)
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藤本 朋子さん(ふじもと ともこ)

患者さんの体験談~一病息災~ vol.122

腎臓をくれた母への想い
そして、長い腎臓病との闘いから気づく患者の立場

妊娠中毒症から透析や移植、度重なる手術や体調トラブルを経験し、不信や怒りを覚えながらも冷静に前進する藤本さん。経験者でなければわからない思いや情報を発信し、医療者と対等に話せる患者になる、日本の医療に感謝する、そんな心境に辿り着いた今は無敵で素敵です。
聞き手:雁瀬 美佐(腎臓サポート協会)

年齢(西暦)病歴・治療歴
1958年生まれ
25歳(1983年)妊娠中毒症から尿たんぱく(+)
30歳(1989年)心不全で緊急血液透析開始(クレアチニン値11)
33歳(1992年)生体腎移植(移植手術時に腸に針孔、修復手術、自己腎摘出手術、計3回。右耳ストレス性難聴)
49歳(2007年)ノロウイルス感染疑いで点滴、帰宅後症状悪化、手足痙攣、悪寒のため夜中に救急搬送、多臓器不全、腸閉塞、急性腎不全、膵炎
50歳(2008年)痙攣・歩行困難・震え・意識混沌あり。クレアチニン値急上昇のため痙攣防止ベルトを使用して透析再導入
53歳(2011年)副甲状腺手術
54歳(2012年)検査で脳動脈瘤左右2個確認。左脳動脈瘤のみ手術
61歳(2019年)移植腎が急性腎盂腎炎となり高熱と腹痛で搬送。3カ月に1回のPTA(経皮的血管拡張手術)開始
64歳(2022年)現在、週3日1回4時間30分の血液透析

腎臓病になったきっかけと透析中の症状

雁瀬 藤本さんの腎臓病との闘いは、その症状や治療にとどまらず、長くて厳しいものだったと思います。まず、最初に腎臓病と診断されたきっかけから教えてください。
藤本 妊娠中毒症が腎臓病の始まりでした。出産予定日の前日に診断されましたが、無事出産。その後もたんぱく尿は続きましたが、症状も無く、健診でも何も言われませんでした。子育てに夢中になっていた5年後、急に尿が出なくなり、肺に水が溜まり心不全を起こしました。搬送された病院で緊急透析され血液透析が始まりました。
雁瀬 「血液透析をします」と言われた時のこと覚えていますか?
藤本 何しろ知識を何もないので「えっ、透析って何?」という状態でした。しかも緊急透析でしたから、あれよあれよという感じです。当時の透析は、太い1本のカテーテルで透析を始めて、やがて腕にシャントを作って「もうすぐ2本のカテーテルで透析するから」と言われ、「え~、2本でやるの?」と驚いた記憶があります。当時の透析はものすごくしんどくて、毎回足やお腹の筋肉がつっていました。造血剤も今のようにいいものがないし、透析が終わるとふらふらでした。この頃、母は医師から生体腎移植の話を聞いていたようです。母からは「お父さんの仕事がひと段落したら、私の腎臓をあげるから」と言われました。

血液透析から生体腎移植へ

雁瀬 血液透析を経て生体腎移植を受けることへの気持ち、受け入れはいかがでしたか。
藤本 これは経験した者でないと表現できないと思います。母から「いよいよ移植できるよ」という電話をもらった時は、お互いに泣きました。とてもありがたいし、子供が小学校低学年だったので週に何回も長時間通院する血液透析やその苦しみからも逃れられると思いました。ただやっぱり母の健康な体に傷をつけてしまうことが、ただただ申し訳なくて。でも、母は移植前の検査で「あなたの腎臓は砂漠の中でも生きていけるくらいのいい腎臓です」と医師から褒められていて、みんなで安心しました。
雁瀬 移植手術が大変だったんですよね。
藤本 はい。移植は大きな国立病院でおこないましたが、母の腎臓摘出にはベテランの医師がつき、私の腎移植には若い医師がつきました。移植手術の時に腸が傷ついたため、再手術が必要になり、立て続けに3回の手術をしました。とてもつらかったですね。腎臓をくれた母の方がもっとつらかったと思います。少し体調が落ち着いた頃、私はホームページを立ち上げて自分の移植体験を綴ることにしました。まだホームページを作るのは大変な時代でしたが、この体験記に全国から「参考になった」というコメントをもらって嬉しかったことを覚えています。
雁瀬 個人からの発信は少ない時代でしたから貴重でしたよね。まさに今のSNSの先駆けですね。移植後は、どんな生活になりましたか。
藤本 母は「顔色が土色から普通の健康な色になったね」と喜んでくれて、自分の価値観も変わってきました。子供はまだ小学生でしたが、自分のやりたいことを自由にできるようになりました。2年に1度持ち回りで開催される「世界移植者スポーツ大会」にも3回ほど参加して、卓球では優勝したこともあります。この大会では、他国の選手の体格の違いに驚いたり、各国の移植医療の情報や比較などができてとても興味深いものがありました。特に移植が進む欧米では、移植術後のメンタルフォローも充実していて、とてもうらやましく思えました。日本で初めて開催された神戸大会(2001年)にはスタッフとしても関りましたが、頑張りすぎて心身ともに不調になりました。患者会の活動で、医療者や治療に不満を持つ患者さんの話し相手になることも多いのですが、日本は今でも医療としてのメンタルサポートが弱いことを痛感しています。

20年ぶりに再透析となり透析技術の変化に驚く

雁瀬 お母様からいただいた腎臓をとても大切にされていたので、再度血液透析に戻ることは本当につらかったと思います。
藤本

藤本さん

50歳頃から、さまざまな体調トラブルが起きました。その度、医療機関を受診したり救急搬送されるのですが、「臓器移植者は免疫抑制剤やステロイド治療をしているので治療対応できない」と言われ、転院させられることが多くてびっくりしました。日本の医療技術は進んでいますが、領域ごとに分かれていて、大病院でさえも移植の知識を持った医療者は多くありません。母からもらった腎臓を少しでも長く大切にしたかったのですが、とうとう透析になりました。でも、いざ透析を受けてみると、以前の透析とは比べものにならないほど楽でした。透析の技術も時代とともに向上していることを実感しました。

今の生活と患者としての思い

雁瀬 ジムに通ったりSNSでの発信も続けていてとてもお元気そうですね。
藤本

藤本さん

はい。コロナで自粛していたジム通いを再開しました。ひどかった頭痛もなくなりよく眠れるようになりました。中性脂肪・コレステロール値も正常範囲になって、ストレス解消になっています。医師からは、「透析日に運動をするといいし、毎日の運動は理想的です」と言われています。これも運動を禁止されていた昔とは違いますね。
雁瀬 最後に腎臓病の患者さんにメッセージをお願いします。
藤本

藤本さん

今一番言いたいのは「情報は武器である」。現在、身近で活動する患者会の情報や、個人からの発信もすごく多いので、それらを活用して自分自身に知識や情報を増やしていきつつ、医療者がきちんと対等に話をしてくれるような患者としての意識を高く持つこと、そして感謝の気持ちを持つことですね。病院で、ある看護師さんに「患者に何か言いたいことはありますか?」と聞いたら「日本で医療を受けるということに幸せを感じ、感謝してほしい。色々な意味で、私たちは医療の保護下にあります。特に腎臓はね」と言われました。「ああ、本当にそうだな」と感じました。

インタビューを終えて

20年前、体調を崩してお母様からいただいた腎臓機能を心配していた藤本さんに、久しぶりにお目に掛かりました。透析に戻っていたものの、毎日ジムで運動していて、体調はよさそうです。過去のことはあまり思い出したくないと言いつつも、インタビューも写真も笑顔で受けていただき、感謝しかありません。これからは、SNSの発信から目を離さず元気な毎日を応援していきます!

 

雁瀬美佐

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