体験談 / 一病息災 Vol.133(2025年7月号)
腎臓病と共にイキイキと暮らす方々に、腎臓サポート協会理事長 雁瀬美佐がインタビュー
(職業や治療法は、取材当時のものです *敬称略)
(職業や治療法は、取材当時のものです *敬称略)
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田中 順也 さん(たなか じゅんや)
腎臓病患者から医療者へ
私を救った医療者のことば
物心ついた時から我慢を強いられ、頑張れば治ると信じて過ごした先に待っていたのは血液透析。生きる気力を失いかけていた15歳の少年を救ったのは、看護師の何気ないことばでした。ことばの重さに気づいた田中さんは今、血液透析と腎臓移植の経験を活かし、看護師として多くの腎臓病患者さんに寄り添っています。
聞き手:雁瀬 美佐(腎臓サポート協会)
年齢(西暦) | 病歴・治療歴 |
---|---|
1977年生まれ | |
6歳(1983年) | 尿検査でたんぱく尿の指摘を受け、毎月の通院を開始 |
10歳(1987年) | 重度のめまいで病院受診。腎生検で逆流性腎症と診断される 3カ月間入院し食事療法や運動制限開始 |
15歳(1992年) | 血液透析開始。日本臓器移植ネットワークに移植希望登録 |
38歳(2015年) | 献腎移植 |
47歳(2025年) | 現在、移植後10年が経過し腎機能は安定 |
小学生の時から腎臓病と向き合う
雁瀬 | 腎臓が悪いと診断されたのはいつ頃でしょうか。 |
田中 | 生まれつき腎臓が悪かったようですが、小学1年の時の尿検査でたんぱく尿を指摘され、それから月に一回通院していました。自覚症状はありませんでしたが、運動は止められ、友達が元気に走り回っている姿を見るのは辛かったですが「大人になれば治る病気だから、いい子にしてたらよくなるよ」との医師のことばを信じて、「中学になればできるんだ」と前向きに捉えていました。小学5年生のある日、テレビの画面がグニャグニャになるほどひどいめまいに襲われました。翌日病院を受診すると、いつもの3倍以上の尿たんぱくが出ていることが判明しました。「これ以上うちでは何も治療ができないから」と、通っていた和歌山の病院から、大阪の大学病院を紹介されました。当時はただの肥満だと思っていましたが、振り返ると、むくみの症状でした。腎生検の結果、逆流性腎症と診断され3カ月入院することになりました。 |
雁瀬 | ようやく病名が判明したんですね。その後の生活はいかがでしたか。 |
田中 | たんぱく質30g、塩分5g以下という厳しい食事療法が必要となり、学校給食ではなく母がつくってくれる薄味のお弁当を持参していました。当時は知らなかったんですが母は給食の献立をもらって、一人だけ違うものを食べて、周りからからかわれないように同じメニューを工夫してつくってくれていたんです。クラスメイトの前で数十種類の薬を服用するのも嫌でトイレで隠れて飲んでいたりもしました。運動制限もあり体育はいつも見学。修学旅行には参加できましたが、すべてのイベントに参加はできずバスの中で休んでいることもありました。子どもながらに自分はほかの人と違うと思っていました。 |
「そこら辺の15歳のガキ」で心が軽くなって前向きに
雁瀬 | 透析治療を始めた経緯を教えてください。 |
田中 | 中学3年の時、医師から「もう腎臓が限界。透析の準備を」と言われました。当時、地元の病院では腹膜透析の前例がなく、治療の選択肢は血液透析のみでした。血液透析に必要な内シャントの手術をして、クリスマスの日に退院しました。年が明けて高校受験を目前に控えたある朝、体が重くて動けず、強い吐き気に襲われました。病院に行くと「今日から透析をする」ことを告げられ、とうとう透析を受けることになりました。透析で自分の血液が機械の中をグルグル回るのを見て、「なんでこんなことせなアカンのやろう」「高校行けるのかな」「親にも迷惑掛けて死んだほうがマシなんじゃないか」と無力感や敗北感でいっぱいでした。病室で一人で落ち込んでいると、ある男性の看護師が「電気もつけずに何してんねん、受験生!」と私に声をかけ、「透析することになって、人生終わったとか思っているんと違うやろな。俺から見たら田中くんなんかそこら辺の15歳のガキと同じなんやで」と言ったんです。「なんて無神経な人なんだろう」。でもそのことばがずっと頭から離れませんでした。そこら辺の15歳のガキなら、これから高校も大学だって行くことができるし就職だってできるかもしれない。夢とか希望を持ってもいいのかもと、ちょっとワクワクしたんです。15歳の私を変えた医療者のことばでした。 |
雁瀬 | 看護師のことばを前向きにとらえて血液透析に向かい合えたんですね。透析を開始してからの経過はいかがでしたか。 |
田中 | 体調が良くなり高校にも進学しました。夜間透析を受けていた時、あの日声をかけてくれた看護師も透析を受けていたんです。本当に驚きました。その看護師は、医学部在学中の19歳から透析を始め、進路を変えて准看護師と臨床工学技士の資格を取ったと聞いて、さらに驚きました。「自分もこんなふうにかっこよくなりたい」と、看護師の道を志し、高校卒業後に大阪の看護学校に入学しました。 |
雁瀬 | 子ども時代のご苦労は本当に大きかったと思いますが、人やことばとの出会いをしっかり受け止めて、目標をみつけて進まれていますね。血液透析を続けながら、看護師資格も取り、結婚もされていますが、腎移植の経緯を教えていただけますか。 |
田中 | 血液透析が始まった時点で日本臓器移植ネットワークに登録はしましたが「透析で上手くいっているし、このままでいい」と思っていました。移植の連絡は受けていたのですが職場での連絡ミスがあったり、辞退してしまったこともありました。3回目の連絡があった時は、1カ月後に自分の初めての講演が開かれる予定があったので、断ってしまったんですが、今思うとなんてバカなことをしたんだと思います。臓器提供は亡くなった方の最後の意思であり、その方のご家族もその意思を尊重した尊い結果なんです。講演後、なぜ自分の都合で断ってしまったんだろうかと自責の念に駆られ、「もし次にチャンスが巡ってきたら、例え親の死に目であっても、何が何でも受けよう」と、決意しました。その後、38歳の時に縁があって腎移植を受け、23年間の透析治療が終わりました。移植から今年で10年が経ちますが、尿たんぱくも出ていませんし、クレアチニン値も安定していて順調です。 |
「療法選択外来」を立ち上げる
雁瀬 | 慢性疾患看護専門看護師の資格も取得されたそうですね。 |
田中 | 看護師として働くなかで、15歳の私が出会ったあの看護師のように、腎臓病患者としての経験を活かして患者さんと向き合う看護師になりたいと、ずっと思っていました。資格を取得したのは32歳の時です。現在勤務しているのは総合病院の人工透析室であり、「療法選択外来」を担当しています。「療法選択外来」は、慢性腎臓病の患者さんとその家族と医療者が対話し、あらゆる選択肢の中から満足のいく治療法を決断するための支援をおこなう場所です。血液透析以外の選択肢を知っていたら、15歳の私と家族はどんな選択をしただろうかという思いが、私の心にずっと残っていました。「患者さんと家族が療法を選択するまでのプロセスに、もっと丁寧に寄り添いたい」。そんな私の思いに賛同してくれた医師と二人で始めた「療法選択外来」は、立ち上げ当時こそ理解が得られず苦労しましたが、今は医師5名、スタッフ8名で手厚い支援をおこなえるようになりました。 |
雁瀬 | 腎臓病患者さんと医療者が、より一層向き合うためには何が必要でしょう。 |
田中 | 透析治療には必ずつらい時期があります。私自身も経験しましたが、例えば仕事が忙しく体重の自己管理ができなくなることがありました。そのような時、医療者から指摘を受けると、「どうせわかってくれない」と感じて心を閉ざし、会話が少なくなってしまったこともあります。ですが、そんな時こそ、自分の正直な気持ちを医療者に伝えることが大切です。医療者の多くが悩みながらも、常にあなたの側で力になりたいと思っています。遠慮せずに相談してみてください。医療者側も、患者さんに対してどのようなことばを選ぶべきか悩むことがあると思います。例えば、私は「なんでそんなこと言われなあかんねん」と感じたことが何度もありました。しかし、医療者のことばは患者さんに多くのことを気づかせてくれ、時には救いにもなります。患者さんは医療者のことばを振り返りながら、自分の状況を受け入れ、気持ちを整理できることがあります。ですので、まずは患者さんの声に耳を傾けてください。そして臆せず気負わず、謙虚な姿勢でことばを伝え続けてほしいと思います。その一言が患者さんの人生を変える力を持っていることを忘れないでほしいと思っています。 |
インタビューを終えて
2024年の初夏、学会で講演されている田中さんと初めてお目に掛かりました。ほんの少しの活字と写真で構成されているお話からは、長い闘病と苦労、お母様への感謝、医療者との歩み、ご本人のやさしさが伝わってきました。「医療者のことばの持つ力」を出版されています。ことばの大切さを教えていただきました。
雁瀬美佐